プロフィール

代表あいさつ

氏  名:姜 榮曙(かん よんそ)
生年月日:1966年1月30日
資  格:はり師、きゅう師
最終学歴:東洋鍼灸専門学校鍼灸科卒業

2014年3月:国家資格(はり師・きゅう師)免許取得
2016年6月:東京・新宿御苑であんにょん鍼灸院開院
2021年8月:体調不良により治療院を閉院
2022年2月:別府市に移住
2022年6月:別府市上野口町にあんにょん鍼灸院開院

大阪生まれの韓国系日本人3世。フリーランスのイベントプランナーから実母の介護生活を経て鍼灸師となる。
保護猫2匹(♂♀)と同居中。

氏  名:姜 榮曙(かん よんそ)
生年月日:1966年1月30日
資  格:はり師、きゅう師
最終学歴:東洋鍼灸専門学校鍼灸科卒業

2014年3月:国家資格(はり師・きゅう師)免許取得
2016年6月:東京・新宿御苑であんにょん鍼灸院開院
2021年8月:体調不良により治療院を閉院
2022年2月:別府市に移住
2022年6月:別府市上野口町にあんにょん鍼灸院開院

大阪生まれの韓国系日本人3世。フリーランスのイベントプランナーから実母の介護生活を経て鍼灸師となる。
保護猫2匹(♂♀)と同居中。


初めまして。代表の姜榮曙(かん よんそ)です

私の経歴をご覧になったお客さんから「なぜ鍼灸師になったんですか?」「なぜ別府だったんですか?」とよく聞かれます。

私にも明確な答えはないのですが、その時々に選択した結果が鍼灸師であり別府でした。

そんな選択の経緯を私のプロフィールとして紹介させていただきます。少し長くなりますが、お付き合いください。

初めまして。代表の姜榮曙(かん よんそ)です

私の経歴をご覧になったお客さんから「なぜ鍼灸師になったんですか?」「なぜ別府だったんですか?」とよく聞かれます。

私にも明確な答えはないのですが、その時々に選択した結果が鍼灸師であり別府でした。

そんな選択の経緯を私のプロフィールとして紹介させていただきます。少し長くなりますが、お付き合いください。

マッサージの常連客

私は鍼灸師になる前はフリーランスでイベントの企画をしていました。
広告代理店から依頼を受けて、販売促進イベントや PRイベントを考える仕事です。

当時は女性のプランナーが少なかったので重宝されましたが、厳しい締切りを守るプレッシャーと、結果を出さなくてはいけないプレッシャーで、精神的な緊張が解けない毎日でした。

一日中パソコンに向かい、大きな仕事になると事務所に寝袋を持ち込んで24時間体制で働きました。仕事が一段落すると、ストレス発散で飲み歩き、昼夜が逆転する生活が当たり前になっていました。脳がいつも興奮しているような、変な高揚感のある毎日でした。

そんな生活を続けている内に、慢性的に感じていた首・肩・背中のコリが取れにくくなり、深い呼吸ができなくなりました。朝起きた時から体が重だるく、仕事が無い日は一日中ベッドの中で過ごす事が多くなりました。

そのうちに些細な事でキレる、突発的に激しい胃痛に襲われる、眠れない、寝てもすぐに目が覚めるといった自律神経症状を発症しました。

睡眠導入剤が手放せなくなり、頻繁にマッサージ店通いをしていました。医者からは規則正しい生活をして、運動するようにアドバイスされていましたが、当時の私は先生の話をまともに聞いていませんでした。

私は鍼灸師になる前はフリーランスでイベントの企画をしていました。
広告代理店から依頼を受けて、販売促進イベントや PRイベントを考える仕事です。

当時は女性のプランナーが少なかったので重宝されましたが、厳しい締切りを守るプレッシャーと、結果を出さなくてはいけないプレッシャーで、精神的な緊張が解けない毎日でした。

一日中パソコンに向かい、大きな仕事になると事務所に寝袋を持ち込んで24時間体制で働きました。仕事が一段落すると、ストレス発散で飲み歩き、昼夜が逆転する生活が当たり前になっていました。脳がいつも興奮しているような、変な高揚感のある毎日でした。

そんな生活を続けている内に、慢性的に感じていた首・肩・背中のコリが取れにくくなり、深い呼吸ができなくなりました。朝起きた時から体が重だるく、仕事が無い日は一日中ベッドの中で過ごす事が多くなりました。

そのうちに些細な事でキレる、突発的に激しい胃痛に襲われる、眠れない、寝てもすぐに目が覚めるといった自律神経症状を発症しました。

睡眠導入剤が手放せなくなり、頻繁にマッサージ店通いをしていました。医者からは規則正しい生活をして、運動するようにアドバイスされていましたが、当時の私は先生の話をまともに聞いていませんでした。

介護生活と腰痛

40 歳を目前にした頃、母が2度の脳梗塞で寝たきりになりました。私は仕事を辞めて、母の介護をする為に実家に戻りました。

私が介護離職を決断したのは、母に少しでも恩返しというか、親孝行をしたかったからです。私は7人きょうだいの末っ子で、父は私が生まれる1カ月前にがんで他界していました。女手一つで7人もの子供を育てあげた母の苦労は並大抵ではなかったと思います。
母の介護は、好き勝手に生きてきた私にとって、最後の親孝行の機会だと思ったのです。

介護生活の大変さは覚悟していたものの、実際は想像をはるかに超えていました。

母には脳梗塞の重い後遺症があったので、食事、排せつなど日常生活すべてに介助が必要でした。特に大変だったのは、ベッドから車椅子への移乗です。私は母を寝たきりにさせるのが嫌だったので、食事は必ず座ってとってもらい、母との散歩も日課にしていました。


体に全く力が入らない母を、一日に何度も持ち上げる事を繰り返しているうちに、腰をひどく傷めてしまいました。もともと上半身がこり固まっていたところに、腰痛も加わり、ミシミシと痛む体を気力だけで動かしているような毎日でした。

自分の体のケアをする時間はまったく無かったので、腰痛はどんどん悪化しました。介護生活が 3 年目に入った頃には、痛みとしびれで5分と続けて歩く事ができない間欠跛行(かんけつはこう)の症状が出始めました。

整形外科でレントゲンを取ると、私の腰椎の椎間板の一部がペチャンコにつぶれていました。医者からは、加齢もあるしもう治らないと言われ、気の強い私もこの時ばかりは「母を看取るまえに私の体が壊れてしまう…」と、精神的にかなり追い詰められました。


結局この時の腰痛は鍼とカイロプラクティックを合わせた治療をする先生に治してもらいました。が、その先生のはり治療の痛いこと痛いこと。治療中はハンカチを噛みながら痛みに耐えました。いまなら絶対に通院しませんね。

40 歳を目前にした頃、母が2度の脳梗塞で寝たきりになりました。私は仕事を辞めて、母の介護をする為に実家に戻りました。

私が介護離職を決断したのは、母に少しでも恩返しというか、親孝行をしたかったからです。私は7人きょうだいの末っ子で、父は私が生まれる1カ月前にがんで他界していました。女手一つで7人もの子供を育てあげた母の苦労は並大抵ではなかったと思います。
母の介護は、好き勝手に生きてきた私にとって、最後の親孝行の機会だと思ったのです。

介護生活の大変さは覚悟していたものの、実際は想像をはるかに超えていました。

母には脳梗塞の重い後遺症があったので、食事、排せつなど日常生活すべてに介助が必要でした。特に大変だったのは、ベッドから車椅子への移乗です。私は母を寝たきりにさせるのが嫌だったので、食事は必ず座ってとってもらい、母との散歩も日課にしていました。

体に全く力が入らない母を、一日に何度も持ち上げる事を繰り返しているうちに、腰をひどく傷めてしまいました。もともと上半身がこり固まっていたところに、腰痛も加わり、ミシミシと痛む体を気力だけで動かしているような毎日でした。

自分の体のケアをする時間はまったく無かったので、腰痛はどんどん悪化しました。介護生活が 3 年目に入った頃には、痛みとしびれで5分と続けて歩く事ができない間欠跛行(かんけつはこう)の症状が出始めました。

整形外科でレントゲンを取ると、私の腰椎の椎間板の一部がペチャンコにつぶれていました。医者からは、加齢もあるしもう治らないと言われ、気の強い私もこの時ばかりは「母を看取るまえに私の体が壊れてしまう…」と、精神的にかなり追い詰められました。

結局この時の腰痛は鍼とカイロプラクティックを合わせた治療をする先生に治してもらいました。が、その先生のはり治療の痛いこと痛いこと。治療中はハンカチを噛みながら痛みに耐えました。いまなら絶対に通院しませんね。

医療に興味をもったきっかけ

私が医療に興味を持ったのは、母に行っていたオリジナルのリハビリが劇的な効果を挙げた成功体験があったからです。

母は右半身麻痺、高次機能障害、ジャルゴン失語症(意味不明な言語)などの後遺症がありました。食事も自力で取ることができず、急性期の病院を退院してすぐに胃ろう(胃からの経管栄養摂取)もしていました。

肉体の自由とコミュニケーション能力を失った母がとても不憫でした。なによりも食べることが大好きだった母が、その楽しみを奪われたことがとてもつらかったです。

母にもう一度口から食事を取らせたいという一念で、私は専門書を取り寄せ勉強を始めました。作業療法士の先生に意見を聞きながら、オリジナルの食べる訓練とリハビリを根気よく続けたところ、86 歳だった母が驚異的な回復ぶりを見せました。

柔らかいパンから口にし始め、最終的には焼き肉が食べられるまでに回復したんです!

胃ろうも外すことが出来ました。人間の欲を満たそうとする力はすごいですよ(笑)。
担当医は「80歳を超えて胃ろうを外せた人は見たことがない。奇跡ですね」と驚いていました。

一時は死の淵をさまよっていた母がどんどん回復していく姿を目の当たりにして、生命というものの力強さにとても感動しました。そしてその力を自分の努力で引き出せたことが嬉しく、今までの仕事では得たことのない満足感を感じたました。

私が医療に興味を持ったのは、母に行っていたオリジナルのリハビリが劇的な効果を挙げた成功体験があったからです。

母は右半身麻痺、高次機能障害、ジャルゴン失語症(意味不明な言語)などの後遺症がありました。食事も自力で取ることができず、急性期の病院を退院してすぐに胃ろう(胃からの経管栄養摂取)もしていました。

肉体の自由とコミュニケーション能力を失った母がとても不憫でした。なによりも食べることが大好きだった母が、その楽しみを奪われたことがとてもつらかったです。

母にもう一度口から食事を取らせたいという一念で、私は専門書を取り寄せ勉強を始めました。作業療法士の先生に意見を聞きながら、オリジナルの食べる訓練とリハビリを根気よく続けたところ、86 歳だった母が驚異的な回復ぶりを見せました。

柔らかいパンから口にし始め、最終的には焼き肉が食べられるまでに回復したんです!
胃ろうも外すことが出来ました。人間の欲を満たそうとする力はすごいですよ(笑)。
担当医は「80歳を超えて胃ろうを外せた人は見たことがない。奇跡ですね」と驚いていました。

一時は死の淵をさまよっていた母がどんどん回復していく姿を目の当たりにして、生命というものの力強さにとても感動しました。そしてその力を自分の努力で引き出せたことが嬉しく、今までの仕事では得たことのない満足感を感じたました。

44歳で鍼灸学校の学生に

母を自宅で無事に看取ったあと、私は東京に戻り、44歳で鍼灸学校の学生になりました。
医療職の中で鍼灸師を選んだのは、開業権があることと、母の介護や私の腰痛経験を通して西洋医学に疑問をいただいていたからです。東洋医学の自然と共に生き、自分の力で病を治していくという考え方も好きでした。

学生時代の3 年間は、昼間は介護施設で働き、夜は学校、週末はマッサージのアルバイトを掛け持ちしながら勉強しました。学校とアルバイトでろくに休みを取っていなかったので、いつも疲れていて、いつもどこかが痛い状態でした。

鍼灸学校での実技の授業は、先生が生徒を患者役にして実演してくれるのですが、私はいつも真っ先に手を挙げて患者役を希望し、先生に治療をしてもらっていました。同級生からは「不定愁訴のデパートメント」と呼ばれていました(笑)。

学生生活は肉体的には大変でしたが、それ以上に学校で学ぶこと全てが興味深く刺激的でした。人生で初めて勉強することが楽しいと思いました。

特にはりの実技が楽しくて、授業が終わるとクラスメートとお互いの体で練習をし、家では毎日自分ではりを打って体の変化を観察しました。体があちこち悪かったので、実験材料に事欠かなかったのは良かったです。この時に始めた、毎日自分にはりをうつ習慣は今でも続けています。

母を自宅で無事に看取ったあと、私は東京に戻り、44歳で鍼灸学校の学生になりました。
医療職の中で鍼灸師を選んだのは、開業権があることと、母の介護や私の腰痛経験を通して西洋医学に疑問をいただいていたからです。東洋医学の自然と共に生き、自分の力で病を治していくという考え方も好きでした。

学生時代の3 年間は、昼間は介護施設で働き、夜は学校、週末はマッサージのアルバイトを掛け持ちしながら勉強しました。学校とアルバイトでろくに休みを取っていなかったので、いつも疲れていて、いつもどこかが痛い状態でした。

鍼灸学校での実技の授業は、先生が生徒を患者役にして実演してくれるのですが、私はいつも真っ先に手を挙げて患者役を希望し、先生に治療をしてもらっていました。同級生からは「不定愁訴のデパートメント」と呼ばれていました(笑)。

学生生活は肉体的には大変でしたが、それ以上に学校で学ぶこと全てが興味深く刺激的でした。人生で初めて勉強することが楽しいと思いました。

特にはりの実技が楽しくて、授業が終わるとクラスメートとお互いの体で練習をし、家では毎日自分ではりを打って体の変化を観察しました。体があちこち悪かったので、実験材料に事欠かなかったのは良かったです。この時に始めた、毎日自分にはりをうつ習慣は今でも続けています。

深層筋治療との出会い

修行していた「なおし家鍼灸院

鍼灸学校を卒業した後は、はりの施術経験をどこで積むのかという課題に直面しました。

私の中では 48 歳で免許を取り、2年間鍼灸院で修業をして技術を磨き、50 歳で独立するという青写真がありました。

鍼灸学校には私でも就職できる、整骨院や介護施設などの求人がありましたが、私は鍼灸院での修業にこだわっていました。

学校を出たての鍼灸師はペーパードライバーみたいなものなので、鍼灸師として独り立ちするには、必ず先生について技術を磨かなければいけない、と強く思っていました。
とはいえ、50 歳を目前にした女性を弟子入りさせてくれる鍼灸院などそうそうありません。

私はすでに48歳でした。鍼灸師として食べていくしかなかったので必死でした。
来る日も来る日も憑かれたようにインターネットで鍼灸院の求人を探しました。

そして、卒業から 2 か月後。とうとう見つけたんです。

それは求人ではなく、深層筋治療の第一人者である角谷敏宣先生の技術セミナーでした。そのセミナーには、受講者の中から 1 名を研修生として治療院に迎え入れるという、参加者特典がありました。

私には研修生に選んでもらえる勝算は全くありませんでしたが、技術を磨きたいという熱意は誰にも負けない自信はありました。この機会を絶対に逃してはいけない!という一念でこのセミナーに臨みました。


そして 4 か月のセミナー終了後、6 名の参加者の中から私が研修生に選ばれました。

研修生になってからは、開業前の一時間、先生から技術指導を受け、早い時期から実践もさせていただきました。先生の治療院は全国から患者さんが来院する、予約の取れない鍼灸院だったので、様々な症例、幅広い年代の患者さんを施術することができました。

同時期に整骨院の自費治療を受け持つアルバイトもして臨床経験を積んでいたので、独立してやっていける自信になりました。

こうして私は最初の青写真通り、50歳で治療院を開業することができました。

実は角谷先生と私は誕生日が同じなんです。奇遇だと思いませんか?

鍼灸学校を卒業した後は、はりの施術経験をどこで積むのかという課題に直面しました。

私の中では 48 歳で免許を取り、2年間鍼灸院で修業をして技術を磨き、50 歳で独立するという青写真がありました。

鍼灸学校には私でも就職できる、整骨院や介護施設などの求人がありましたが、私は鍼灸院での修業にこだわっていました。

学校を出たての鍼灸師はペーパードライバーみたいなものなので、鍼灸師として独り立ちするには、必ず先生について技術を磨かなければいけない、と強く思っていました。
とはいえ、50 歳を目前にした女性を弟子入りさせてくれる鍼灸院などそうそうありません。

私はすでに48歳でした。鍼灸師として食べていくしかなかったので必死でした。
来る日も来る日も憑かれたようにインターネットで鍼灸院の求人を探しました。

そして、卒業から 2 か月後。とうとう見つけたんです。

それは求人ではなく、深層筋治療の第一人者である角谷敏宣先生の技術セミナーでした。そのセミナーには、受講者の中から 1 名を研修生として治療院に迎え入れるという、参加者特典がありました。

私には研修生に選んでもらえる勝算は全くありませんでしたが、技術を磨きたいという熱意は誰にも負けない自信はありました。この機会を絶対に逃してはいけない!という一念でこのセミナーに臨みました。

そして 4 か月のセミナー終了後、6 名の参加者の中から私が研修生に選ばれました。

研修生になってからは、開業前の一時間、先生から技術指導を受け、早い時期から実践もさせていただきました。先生の治療院は全国から患者さんが来院する、予約の取れない鍼灸院だったので、様々な症例、幅広い年代の患者さんを施術することができました。

同時期に整骨院の自費治療を受け持つアルバイトもして臨床経験を積んでいたので、独立してやっていける自信になりました。
こうして私は最初の青写真通り、50歳で治療院を開業することができました。

実は角谷先生と私は誕生日が同じなんです。奇遇だと思いませんか?

メニエール病を経て別府に移住

東京の治療院から見えた風景。

開業して5年目を迎えた2020年の1月「コロナ禍」が起こりました。

私の治療院は新宿御苑という場所柄、地域のお客さんが少なく、ほとんどが電車に乗って来てくれる人でした。その為、新型コロナウイルスのニュースが広まったと同時にお客さんがゼロになりました。まるで時間が止まったようでした。

その後は皆さんもご存じの通り「緊急事態宣言」が出たり「新しい生活様式」が始まったりして、日常生活が一変しましたよね。それでも、その年の秋には「Go to トラベル」の支援策が出て、私の治療院にもお客さんが戻ってきました。でも、この間に私の緊張の糸が切れてしまったんです。

振り返れば、40歳で母の介護を始めてから、学生生活、修行、開業と、ひと時も心休まる時はなく、15年近く走り続けた日々でした。

年末を迎え、本格的に忙しくなってきた頃には「しんどい→仕事をしたくない→でも休めない」の繰り返しで疲労はピークに達していました。そして、迎えた新年の1月末。私は施術中に突然回転性のめまいと激しい嘔吐に襲われました。その後も同じような症状を何度か繰り返し、最終的にはメニエール病の診断を受けました。

個人事業主は働かないと収入はゼロです。治療院を再開しなければ!と焦れば焦るほどめまいは悪化しました。寝たり起きたりの生活が半年を迎えた頃、私は決断しました。

治療院を閉めて、東京を離れよう、と。

当時はメニエール病がなかなか好転しなかったので、一生働けない未来をまじめに想像していました。少ない貯えがなくなる前に別の地で生活の基盤を作らないといけないと思ったのです。

移住先の候補は「温泉地」「食べ物が美味しい」「豪雪地帯ではない」ことを条件に探しました。最初は関東近県を探しましたが、冬が寒そうだったので九州に目を転じ、最終的に鹿児島県の霧島か別府に絞りました。体調が良い時に両方を下見に行き、肌感覚の合う別府に決めました。

別府、最高ですね。

山に囲まれた心穏やかな生活、毎日温泉に入れる幸せ、美味しくて安い食材。別府の人たちは気さくな人が多いことも嬉しいです。

家族や友人から「知り合いが一人もいない土地での生活は寂しくない?」と心配されましたが、大家族で育った反動か一人は全然平気なんです。

実は私、2002年の日韓ワールドカップの仕事で大分県に何回か来てたんですよ。
そのとき市の担当者だった女性から、自分のマンションには温泉があると聞き、うらやましく思ったことを別府に来て思い出しました。私もいまや毎日温泉に入れる幸福を手にいれました♡

開業して5年目を迎えた2020年の1月「コロナ禍」が起こりました。

私の治療院は新宿御苑という場所柄、地域のお客さんが少なく、ほとんどが電車に乗って来てくれる人でした。その為、新型コロナウイルスのニュースが広まったと同時にお客さんがゼロになりました。まるで時間が止まったようでした。

その後は皆さんもご存じの通り「緊急事態宣言」が出たり「新しい生活様式」が始まったりして、日常生活が一変しましたよね。それでも、その年の秋には「Go to トラベル」の支援策が出て、私の治療院にもお客さんが戻ってきました。でも、この間に私の緊張の糸が切れてしまったんです。

振り返れば、40歳で母の介護を始めてから、学生生活、修行、開業と、ひと時も心休まる時はなく、15年近く走り続けた日々でした。

年末を迎え、本格的に忙しくなってきた頃には「しんどい→仕事をしたくない→でも休めない」の繰り返しで疲労はピークに達していました。そして、迎えた新年の1月末。私は施術中に突然回転性のめまいと激しい嘔吐に襲われました。その後も同じような症状を何度か繰り返し、最終的にはメニエール病の診断を受けました。

個人事業主は働かないと収入はゼロです。治療院を再開しなければ!と焦れば焦るほどめまいは悪化しました。寝たり起きたりの生活が半年を迎えた頃、私は決断しました。

治療院を閉めて、東京を離れよう、と。

当時はメニエール病がなかなか好転しなかったので、一生働けない未来をまじめに想像していました。少ない貯えがなくなる前に別の地で生活の基盤を作らないといけないと思ったのです。

移住先の候補は「温泉地」「食べ物が美味しい」「豪雪地帯ではない」ことを条件に探しました。最初は関東近県を探しましたが、冬が寒そうだったので九州に目を転じ、最終的に別府に決めました。

別府、最高ですね。

山に囲まれた心穏やかな生活、毎日温泉に入れる幸せ、美味しくて安い食材。別府の人たちは気さくな人が多いことも嬉しいです。

家族や友人から「知り合いが一人もいない土地での生活は寂しくない?」と心配されましたが、大家族で育った反動か一人は全然平気なんです。

実は私、2002年の日韓ワールドカップの仕事で大分県に何でも来ていたんですよ。
そのとき市の担当者だった女性から、自分のマンションには温泉があると聞き、うらやましく思ったことを別府に来て思い出しました。私もいまや毎日温泉に入れる幸福を手にいれました♡

目指せ生涯現役!

『人生に無駄なことはない』と言いますが、本当にそうだなぁと思います。

これまで様々な体の不調を経験してきましたが、それはみな鍼灸師としての糧になっています。


メニエール病は、首肩こりの治療に専念し(自分のはり&マッサージ)、運動習慣をつけることで克服しました。医者から「もう治らない」と宣言された腰は、完治とまではいかないまでも富士登山やキックボクシングを楽しむまでに改善しました。別府に来てからは、鶴見岳一気登山を完登し、志高湖健康マラソンの16㎞コースも完走しましたよ!

そして、いま私は更年期真っただ中です。


ホルモンの減少で次々と起こる不調に落ち込んだり自信を無くしたりしていますが、これまでと同様に、治療法やセルフケアを研究&実践して乗り切っています。

この先もきっと、どこかが痛くなったり、体調を崩したりしながら年を重ねていくのでしょう。そんな時も、東西医学から知見を得て自分の体で検証し、まずは自分が健康になることで同じ症状で悩むお客さんの力になりたいと思います。


せっかくこんなにやりがいのある仕事に就いたのだから、生涯現役を目指していきます!


世の中には、色々な経歴をもった人の、色々な治療法がありますよね。私の治療家としての強みは、患者さんの痛みに寄り添えること、マッサージや整体では解消できない、深部のコリやゆ着を解消できること、そしてセルフケアを指導できることです。

あまたある治療の中で、私の治療に興味を持っていただいたなら、家族のように向き合い、全力であなたの健康づくりをサポートします。

どうぞ、あんにょん鍼灸院をよろしくお願いいたします。

『人生に無駄なことはない』と言いますが、本当にそうだなぁと思います。

これまで様々な体の不調を経験してきましたが、それはみな鍼灸師としての糧になっています。

メニエール病は、首肩こりの治療に専念し(自分のはり&マッサージ)、運動習慣をつけることで克服しました。医者から「もう治らない」と宣言された腰は、完治とまではいかないまでも富士登山やキックボクシングを楽しむまでに改善しました。別府に来てからは、鶴見岳一気登山を完登し、志高湖健康マラソンの16㎞コースも完走しましたよ!

そして、いま私は更年期真っただ中です。

ホルモンの減少で次々と起こる不調に落ち込んだり自信を無くしたりしていますが、これまでと同様に、治療法やセルフケアを研究&実践して乗り切っています。

この先もきっと、どこかが痛くなったり、体調を崩したりしながら年を重ねていくのでしょう。そんな時も、東西医学から知見を得て自分の体で検証し、自分が健康を取り戻すことで同じ症状で悩むお客さんの力になりたいと思います。

せっかくこんなにやりがいのある仕事に就いたのだから、生涯現役を目指していきます!

世の中には、色々な経歴をもった人の、色々な治療法がありますよね。私の治療家としての強みは、患者さんの痛みに寄り添えること、マッサージや整体では解消できない、深部のコリやゆ着を解消できること、そしてセルフケアを指導できることです。

あまたある治療の中で、私の治療に興味を持っていただいたなら、家族のように向き合い、全力であなたの健康づくりをサポートします。

どうぞ、あんにょん鍼灸院をよろしくお願いいたします。

私の相棒、リン太郎とチビ子